制作工程 ③

制作工程 ①」、「制作工程 ②」、から続きます。

上彫りができた人形は、このあと「胡粉塗り」に入ります。
しかしその前に、地味ですが、欠かすことのできない工程があります。
それが「紙貼り」です。

何か書いてあるのが見えますか?

貼っているのはむこうが透けて見えるほど薄く、
少し揉むだけで毛羽立つようなやわらかい紙。
桐と胡粉をなじませ、つなぐ、大事な役割をはたします。

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制作工程 ②

制作工程 ①」 から続きます。

粗彫り後、半分に割り、中をくりぬき、3か月ほど乾燥させた木地は
もう一度貼り合わせられ、いよいよ上彫りに入っていきます。

上彫り途中の人形

ここからまだまだ細かく彫っていきます。
このあと塗り重ねていく胡粉の厚みを慎重に考慮しながらの作業です。

顔のアップ

目・鼻・口の位置はこの段階で決定され、
これ以降の工程で変更することはできません。
上彫りは作品の仕上がりを決定づける非常に重要な工程。

作品の完成まで、登山でいうと「3合目」ほどの地点です。

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制作工程 ①

御所人形の制作法」にも書いていますが、
「木彫りであること」は初代庄五郎以来、
伊東家の御所人形制作において最も重要なことです。

素材である桐の木

素材である桐の木。
伐採後、20年から30年ほど天日にあて、乾燥させます。
真ん中の髄の部分は使えないので、四分の一に割って保管しています。
風雨に耐えて残った強い部分のみを使用します。

木彫に使う道具

木彫に使う道具です。電動のものは一切使いません。
桐の木は柔らかいので、手で彫らないと歪んだり、割れたりしてしまうからです。

その性質から彫刻家は「桐」という木を素材として用いることはほぼありませんが、
伊東家ではこのあとの工程で塗り重ねていく胡粉との相性を考慮し、
江戸時代より、代々が桐を素材として採用しています。

粗彫り中の人形

粗彫り途中の人形。
これは衣装を着ける予定の人形なので、手は別に彫っています。
完成後にひびが入ることがないよう、
このあといったん半分に割り、中をくりぬき、3か月ほど乾燥させます。

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月鉾稚児人形「於菟麿」

今回も祇園祭の話題です。
四条新町にある月鉾はその装飾の豪華さから「動く美術館」と言われ、
また何といっても鉾頭の月の形から女性に抜群の人気を誇っています。

祇園祭月鉾

実はその月鉾の稚児人形「於菟麿」(おとまろ)は九世久重の作です。
数ある山鉾の稚児人形の中でも最高の「美男子」と称される
「於菟麿」は九世久重によって明治45年(1912)に制作されました。

九世久重作 月鉾「於菟麿」

先日お目にかかった鉾町の方によると
この「於菟麿」もそろそろ修復の時期かということでした。
数えれば今年は九世久重制作の年からちょうど100年。
やはりなにか不思議な縁を感じます。

宵山の月鉾

山鉾巡行まであと十日となりました。
今年も巡行の無事を祈っています。

ちなみに九世久重は昭和天皇の御大典にあたり
香淳皇后の依頼を受け、昭和3年(1928)に九世久重作 「洋装市松人形」
このような珍しい洋装の市松人形を制作しています。

長刀鉾「和泉小次郎親衡」像2

昨日、お預りしていた
祇園祭長刀鉾守護神「和泉小次郎親衡」像をお納めしました。

シャイな和泉小次郎親衡

27年ぶりにやってきた「親衡」像は思ったより損傷が激しく、
表面の胡粉をすべて剥がしての大がかりな修復となりました。

きれいになった和泉小次郎親衡

次、うちに戻ってこられるのはいつのことかわかりませんが、
修復の技術は次の世代にも必ず伝承していきたいと思っています。

去っていく和泉小次郎親衡

繰り返しになりますが「親衡」像は

長刀鉾天王台

に飾られています。

長刀鉾「和泉小次郎親衡」像

祇園祭長刀鉾

京都三大祭のひとつで、日本三大祭のひとつにも数えられる祇園祭。
なかでも長刀鉾は「くじ取らず」といわれ、毎年必ず巡行の先頭を行くことや、
今でも生稚児(いきちご)が乗る唯一の鉾であること、などで人気です。

その長刀鉾の守護神 「和泉小次郎親衡」(いずみこじろうちかひら)像を
現在、衣笠の工房でお預りしています。
久重が昭和60年(1985)に制作して以来、27年ぶりとなる修復のためです。

帰ってきた「和泉小次郎親衡」像

伊東家について」 にも書いていますが、
初代「親衡」像は享保11年(1726)、伊東家の祖先「桝屋庄五郎」が制作しました。

しかし昭和29年(1954)、長い間、風雨にさらされ傷みが激しくなってきたことから、
約230年ぶりに十世久重(建一の曽祖父)により復元新調されました。

228年の役目を終えた 初代庄五郎作「親衡」像

以後、十世久重作の二代目「親衡」像も真木の天王台で巡行を
見守ってきたのですが、昭和60年(1985)、思いがけない事故が起こりました。
鉾建ての際に鉾が横倒しになり、
その衝撃で「親衡」像の首と手が折れてしまったのです。

その年はどうにか応急処置を施し巡行されたのですが、やはり損傷は激しく、
当代久重が新しく三体目となる「親衡」像を作ることになりました。
久重41歳の時のことでした。

いつもの場所から

久重は大きな重圧の中、先祖の作ったものに負けないようにと
約30年前に祖父が作った人形の目や口の筆跡をたよりに、
約一年かけて完成させました。
鉾建ての時、自分が制作した「親衡」像が真木に飾られた時は
万感胸にせまったそうです。

それから27年たった今年、「親衡」像はまた修復の時を迎えました。
くしくも建一は今年41歳、久重が「親衡」像を制作した時と同じ歳です。
不思議なめぐりあわせに御縁と大きな責任を感じつつ、修復にのぞんでいます。

ちなみに「親衡」像は
長刀鉾天王台
に飾られています。

「親衡」像は祇園祭をよく知る方には「天王さん」と呼ばれ親しまれています。
今年の祇園祭は修復された長刀鉾の「天王さん」にもご注目ください。