伊東家について

伊東家は京都洛中で江戸時代初期より「桝屋庄五郎」の屋号で薬種商を営む家筋でしたが、江戸時代中期の享保年間(1716~36)、手先が器用で人形作りの才に秀でた当時の当主が家業を人形制作としました。

庄五郎は人形師としての道を本格的に歩むために「御人形細工師」を名乗り、享保十一年(1726)にはその腕を見込まれ、祇園祭長刀鉾の守護神である「和泉小次郎親衡」像を制作しています。また病除けの願いを込め、薬草を刈る子供の姿をうつした「草刈童子」を作り、家の守り神としました。これが伊東家の人形師としての起源です。

初代 庄五郎作 「草刈童子」

初代 庄五郎作 「草刈童子」

その後、時は流れ、三代庄五郎の頃、京にたびたび疫病がはやりました。
それを憂いた庄五郎は周りの人が疫病にかからないようにと、初代が制作した「草刈童子」を家の戸口に飾りました。そのおかげか近所の者は誰も疫病にかからなかったといいます。

噂は洛中に広がり、その評判をお聞きになった時の帝、「後桜町天皇」は明和四年(1767)、庄五郎を御所にお呼びになられました。庄五郎は朝廷に仕える人形師として御所入りを許され、さらに代々その名を名乗るようにと「有職御人形司 伊東久重」の名を下賜されました。

以後、「伊東久重」となった庄五郎はますます人形制作に励み、寛政二年(1790)には、光格天皇より「入神の作に捺すように」と天皇家の御紋である「十六葉菊花紋印」を拝領しました。

光格天皇より拝領 「十六葉菊花紋印」

光格天皇より拝領 「十六葉菊花紋印」

その後も伊東家は代々が御所人形師として「久重」と「庄五郎」の名を継承、天皇家に認められた「入神の技」は当代十二世となった現在も大切に受け継がれています。